第二章・太刀の時代

 

一、平安時代末期〜鎌倉時代初期

 

 平安時代中期に完成をみた日本刀の形状であるが、伯耆安綱や古備前友成など名工がその技術を発展させ今日にその雄姿を残してくれている。その技法から備前伝・山城伝・大和伝といった鍛刀の伝系が確立されていったのがこの時代である。この時代には源平合戦を通じて武士政権が誕生し、より斬れ味をもとめる風潮が強まった。かつ、後鳥羽院により刀工たちの地位向上もなされ、日本刀独自の美学も確立された。まさに太刀の時代といえる。

 

武士の時代:平安末期には、皇室および摂関家内部抗争の図式から保元の乱(1156年)がおこった。自ら武力を持たない貴族の無力化に反して武士の台頭がいちじるしく、その後の平治の乱(1159年)では武士勢力の抗争となり、源氏を制した平氏が政権を掌握し、貴族社会は終わりを告げた。その後源氏の巻き返しにより源頼朝の鎌倉幕府が成立するのだが、珍しくこの戦いは当時としては総力戦となった。こうした実戦経験から平安末期の優美な太刀が次第に変化を見せていく。

 

平安末期の形状:前述の通り優美という形容詞がぴったり当てはまる(第一章の図参照)。小切先、やや細身で反り深く、腰でぐっと反り返る(腰反り)。かつ上身(鞘に収まる部分)中程にも反りの中心があり(華表反り)曲線の美がある。総体に優しい形態。二尺六寸〜七寸程度の刃長。三条宗近、五条兼永、伯耆安綱、大原真守、古備前友成、古備前正恒、古備前包平、波平行安、三池光世などが代表工。

 

鎌倉時代初期の形状:反り具合、刀姿はほとんど変わらないが、先身幅が広まり重ねがやや厚くなり強さが増している。このあたりに合戦の経験が生かされたと思われる。前時代同様、伝家の宝刀的な重厚な感じがするものが多く、国宝・重要文化財オンパレードである。この時代は平氏を打ち破りはしたが、奥州藤原氏征討・有力御家人の抗争等まだまだ戦乱ムード収まらず、源氏も三代で途絶え北条氏の得宗体制もなだまだ磐石とはいえない時期で、大規模な合戦こそないが小競り合い的な闘争は日常茶飯事的にあり、従って刀剣もまだまだこの先変化をみせる。

後鳥羽院:鎌倉時代初期から中期にかけての刀剣について論じる時、決して忘れてはならないのがこの後鳥羽院である。建久三年(1192年)源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ鎌倉に幕府を開いた。その後の建久九年(1198年)に土御門帝に譲位した後鳥羽上皇はそのまま院政をしいた。朝廷の権力回復に意欲を燃やし「西面の武士」を設置、武力を蓄えられた。その一環として幾多の刀工に太刀を鍛えさせこれを来るべき日のために備えられた。ここで特筆すべきことは、上皇ご自身が非常な愛刀家かつ鑑識眼を持たれていたことである。自ら作刀に当たり、焼刃渡しをされたり、槌をふるって鍛えたこともあったほどで、これほどの最高位の身分の方では他に例をみない。この上皇御自らの手になる太刀は現存品があり、銘の代わりに菊の紋が透かし彫りしてあることから「菊の御作」、「菊造り」と言い表されている。また「御所造り」、「御所焼」とも言われる。

 

後鳥羽院御番鍛冶:後鳥羽院の命により、院に月番で御用をつとめあるいは院の向こう槌をつとめたであろう刀工を御番鍛冶と呼んでいる。十二人説・二十四人説の他、隠岐御番鍛冶(承久の乱で鎌倉に屈し上皇が流された隠岐島においての慰みとして作刀したといわれる)六人説といろいろあるが、ここでは十二人説を紹介する。一月・備前一文字則宗、二月・備中青江貞次、三月・備前一文字延房、四月・粟田口国安、五月・備中青江恒次、六月・粟田口国友、七月・備前一文字宗吉、八月・備中青江次家、九月・備前一文字助宗、十月・備前一文字行国、十一月・備前一文字助成、十二月・備前一文字助延。閏月番に粟田口久国が選ばれている。この久国は特別に御鳥羽院の師徳鍛冶(師範鍛冶)という最高の名誉をうけている。いずれ劣らぬ名工揃いで、この時代を代表する刀工ばかりである。(以上「正和銘尽」記載、後鳥羽院御宇被召抜鍛冶十二月結番次第、ことばいんのぎょうめしいだされかじじゅうにがつけちばんしだい)

 

太刀以外の武器:古来弓と鉾が合戦の主武器であった。この時代も弓はやはり太刀以上に有力な武器であったようだ。一方鉾であるが、源平合戦から鎌倉時代全般を通じてほとんど使用されていない。代わりにこの鎌倉期に使用されたのは「長巻」であった。長巻は本来薙刀の拵えを指すという説もあるが、ここでは薙刀とは便宜上区別しておく。長巻は薙刀ほど先が反っておらず、鎬と横手(第一章の太刀の各部名称参照)を有しており、太刀の変形とも言えるものであり、用途としては「薙ぐ」、「払う」などがある。これに対し、薙刀は一般的に横手がなく、先の反りが強く、南北朝以降室町時代にその形状をみるものである。

 

 

鑑賞余話:この時代の名刀を実際に目にすることはめったにない。写真のみでしか見れないものも多い。その中で実際に見ることの出来た少ない例が、「狐ヶ崎」である。古青江の刀工為次(ためつぐ)の作で時代は鎌倉初期。狐ヶ崎の号の由来は、正治二年(1200年)、源頼朝没後鎌倉を背いて京に走る梶原景時を駿河国清見関にて迎え撃った御家人吉香友兼がみずから梶原一族の景茂をこの太刀にて討ち取り、見事梶原景時を討伐した。が、自身も深手を負い翌日亡くなった。その戦場が狐ヶ崎であったため、以来吉香家ではこれを「狐ヶ崎」と名づけて重宝として代々受け継いだ。吉香一族はその功により友兼の子朝経が播磨国福井荘(現兵庫県姫路市)の地頭となり、さらにその子経光は承久の乱(1221年)の軍功により安芸国大朝本荘(現広島県山県郡大朝町)の地頭になり代々この地に根をおろした。戦国期に毛利元就の次男元春が養子に入る。これが有名な吉川元春である。この名刀は現在も岩国吉川史料館に秘蔵されており、なんと800年以上の長きに渡って吉川家から他家に渡ることなく(ほとんどこのような例は皆無である)、当時の姿を完全に残しており、歴史の重みを肌で感じさせてくれる。また、太刀拵えも完全な姿で残っており、奇蹟といっても過言ではない。まさに国宝にふさわしい名品中の名品である。私は、史料館でこれを目にしたとき、ぼけ〜っと小一時間も見惚れていた記憶がある。名品とはこういうものである。

 

鑑賞余話追記(平成15年11月):上で紹介した「狐ヶ崎」だが、今般吉川史料館様より画像掲載の許可を頂いた。良い機会なのでもっと詳しく触れてみたい。

 

 

 

銘 「為次」

 

号 「狐ヶ崎」(国宝)

 

法量  刃長 二尺五寸九分(78,5cm)

 

     元幅 一寸六厘(3,2cm)  先幅 六分九厘(2,1cm)

 

     重ね 二分九厘(0,9cm)

 

     反り 一寸一分強(3,4cm)

 

刃文  小乱れ・小丁子入る

 

地鉄  小板目良く詰み精美

 

茎   生ぶ、目釘穴2ヶ

 

拵え  革包太刀拵え

 

 

 

 

黒漆革包太刀拵

 

 

全身

 

 

  

 

佩表物打ち    中心佩表     中心佩裏

 

画像はクリックして拡大できます)

 

国宝「狐ヶ崎為次太刀」吉川史料館(岩国市)蔵

 

 

 為次は平安末期から鎌倉・南北朝時代を通じて備中に栄えた青江派の刀工である。特に時代の古いものを「古青江」と称して珍重している。為次もこの古青江に属する、いわば青江刀工群の草分け的存在である。隣国の備前でやはり「古備前」と呼ばれる刀工集団が栄えており互いに鎬を削って切磋琢磨したのか、どちらも名工揃いである。古備前・備前物にも蒐集家があまたいるように青江にも蒐集家は多い。かの大作家柴田錬三郎氏も青江恒次の太刀を愛蔵していたことは有名である。もっとも在銘のものは現存少なく、その意味でも狐ヶ崎はこの上なく貴重なものなのである。

 

地鉄が青黒くいかにも物斬れしそうな雰囲気があり、人を魅了して止まない。それゆえ剣豪小説にしばしば使われることもあった。

 

古青江の特徴はこの地鉄の他、腰反りの深い体配にある。基本的には地鉄の様相から隣国の備前伝ではなく山城伝に分類されているが腰で強く反るところは時代の共通性を示す。私の目にはこの狐ヶ崎の刀身は輪反りに見えるのだが(刀身の真ん中に反りの中心がある)確かに腰でもぐっと反り、そのまま茎自身も反っている。東京代々木の刀剣博物館でよく出会う初老の愛刀家の方に狐ヶ崎の話をしたところ、「あれは茎の反りが凄いよね、上半(かみ)で深く反って茎でも反る。二度ぐっと反る」と仰ってた。正にその通り、雅の中にもなにか力強さを感じる体配である(この、茎でもぐっと反るというのは狐ヶ崎を語る上で外せない表現である。同時代の日本刀創生期の刀工に共通するものといえるが、狐ヶ崎は特にこれが目立つ)。元幅と先幅に差をつけた踏ん張り具合も絶妙であり、生ぶ茎と重ねの厚さが研ぎ減りのない完全な製作当時の姿であることを示している。拵えも当時のものであり、帯取りがだいぶ痛んでところどころほつれてしまってはいるが鑑賞の妨げになるものではなく、数百年という時代の経過を考えると残っていること自体が奇蹟と考えた方がよい。

 

国宝にふさわしい名品中の名品である。愛刀家たるもの、一度は鑑ておきたい名刀の一振りである。

最後になるが、掲載にあたり史料館の学芸員様からこのようなメールをいただいた。私文書なので一部分のみ紹介する。

 

「館蔵品のなかでも展示の問合わせが多いのがこの太刀です。

吉川家はかなりつらい時期は幾度もあったのですが、とりわけこの刀は大事されてきたのでさまざまな方に高く評価していただき、ただ史料を扱う私なのですが嬉しいことです。」

 

この文面の中に吉川家の方々、史料館の方々の苦労がうかがい知れるというもの。「後世に伝え保存する」ことの困難さとそれがいかに重要なことであるかが滲み出ていると感じるのは私だけではないはず。快く掲載許可を下さったことを心より感謝したい。

 

 

二、鎌倉時代中期(さらなる変換期)

 

 この時代には二つの大きな出来事があった。ひとつは承久三年(1221年)の承久の乱である。これは源頼朝の死後の有力御家人の勢力争い、源氏正系の断絶に乗じ、時の執権北条義時追討の院宣を御鳥羽上皇が下したもので鎌倉幕府始まって以来の武力倒幕であった。この時は鎌倉方が一致団結し、院を破り、隠岐に配流し決着を見た。これにより完全に武家が政権を完全掌握し、朝廷から切り離された鎌倉武士独自の文化が形成され、刀剣も独自の形態をみる。もうひとつの出来事は、文永十一年(1274年)と弘安四年(1281年)の二度に渡る元寇である。蒙古軍の使用した武具・防具・戦法は日本の古来の合戦の常識外のものであり、刀剣にも大きく影響を与えることになった。

 

承久の乱後の鎌倉文化:承久の乱後完全に朝廷に対して優位に立ち、朝廷文化から切り離された独自の鎌倉文化が確立された。刀剣においては、朝廷の好む優雅・優美な形状から、武士らしく豪壮な姿に変わっていく。すなわち、元幅・先幅の差が接近し、先伏すような感じもなくなる。重ねもぐんと厚くなる。反りも腰反りから華表(とりい)反りという中心に反りがくるようになる。この頃になると、御家人の討伐はあれど、大規模な戦闘は殆ど無いので、太刀を実際に振るうことも少なかった。そこでさかんに行われたのが「堅物(かたもの)斬り」であった。据え物斬りにおけるひとつの手法だが、甲冑などの堅い頑丈なもので試し斬りを行うことである。当然刀身が丈夫でなければならない。そこで重ねを厚くするわけだが、それがこんもりと盛り上がったところが蛤の貝の形に似ていることから「蛤刃」といわれる形状になった。この重ね厚く重量のある太刀が堅物斬りに適した形であり、鎌倉武士が求めた斬れ味であった。この形状でも切先はほとんど延びず、いかにも頑丈そうな様が胴からすぐ頭のような、いわゆる猪首(いくび)と形容された。しかし、この蛤刃と猪首切先は実戦とは離れた状況で生まれた形状ではないだろうか。堅物斬りも動かぬように据え置いた甲冑・大鎧での試し斬りであり、これそのものも実戦から離れたものではないかと私は考えている。

 

この時代の刀工:承久の乱をきっかけにさらに全国各地に刀工が広がり(すなわち幕府による地頭配備政策が進み、各地に武士が散ったことで各地に需要が高まった)、また中心たる鎌倉にも備前・山城から多くの刀工が移り住んだ。鎌倉鍛冶の発祥である。粟田口国綱、備前三郎国宗などが移住組の筆頭。その他、来国行・国俊、綾小路定利、福岡一文字吉房・吉平等は本国で作刀を続けていた。

 

文永の役:蒙古襲来は様々な影響を日本にもたらした。日本にはない武具・戦闘様式などもその際たるものである。まず、武具であるが、「投石器」、「てつはう」が日本軍にとって初体験するものであり脅威となった。投石器は文字通り遠心力を利用して石をとばすもの。てつはうは、震天雷という中をくりぬいた球体に火薬を詰め点火し、投石器や人力にて投げ爆発させるものである。爆発の威力そのものは左程ではなかったというが何よりも鎌倉武士が驚いたのはその爆発音と硝煙だったという。また馬も非常にこの音を恐れ、暴れたために落馬する武士が後を絶たなかったともいう。これに加え蒙古軍の使用する弓は矢の根に毒が塗ってあり、刺さればもちろん、かすり傷でも必ず相手を殺傷するものであった。そして十進法単位で組まれた集団戦法も日本軍にははじめての戦法であった。

 

日本軍の戦闘様式と太刀の欠点:日本には古来からたとえ合戦とはいえ、「正々堂々」という意識が根付いていた。大軍での激突も、基本的には一局面の戦いをみると個人戦すなわち一騎打ちの形式をとっていた。名乗りをあげ一騎打ちを挑まれればこれに応ずる。こうして多くの武者を討ち取った方が勝利する。従って武具そのものも一騎打ちのための仕様につくられている。堅固な甲冑、蛤刃の太刀がそうである。一対一であれば相手一人の攻撃をしのげれば良い訳で、鎧を厚くして防備する。その鎧を断ち割るための蛤刃の太刀であるが、その成立は堅物斬りという動かぬ据え置かれた甲冑を、斬りやすい角度で、重い甲冑を着込まずに行った結果の産物である(もちろんこれがすべてではないが、要因のひとつではある)。ところが合戦に於いて動き回る相手の鎧を断ち割ることなどほとんど不可能であった。結局武具の隙をねらって斬り付けるか突くかしかない。運良くなしとげても、こんもりと厚い蛤刃のおかげで刃の通りが極端に悪かった。しかも蒙古軍は徹底した集団戦法で、一人の武者に対しまさに群がり討ち取っていった。彼らの着込んでいる鎧は革鎧で、日本軍の大鎧と比べ格段に軽く動きやすいことも効を奏した。こうしてみると、蒙古軍の武具・戦法は日本の武士から見るとすべて「卑怯な振る舞い」以外なんでもない。こうした戦いに慣れてない日本軍が初戦を敗退したのも何ら不思議はない。また、太刀に関しての欠点はもうひとつ露呈された。猪首切先である。頑丈だが一旦欠けた時、切先の長さがないため、研ぎで修復する余地がなかった。無理に研ぐと、刀身全体のバランスが崩れてしまうのであった。こうして否応なくして新たな実戦に即した改良が必要となった。

 

2004.12.31追記

「日本には古来からたとえ合戦とはいえ、「正々堂々」という意識が根付いていた」ということについてだが、最近はこのように考えが多少変わっている。平安末期の平家、鎌倉中期以降の北条得宗体制、江戸時代の幕藩体制の政権安定がなされることにより大規模な合戦がなくなる。いわば比較的平和な時代が到来するわけだが、そうなると卑怯な振る舞いを嫌う思想が生れてるような気がする。本来合戦に卑怯もへったくれもないのだが「合戦なき故に戦いを美化した」のではないだろうか?そう考えると元寇におけるはじめの失態も源平争乱から数十年経て独自の「鎌倉武士の美意識」とモンゴル軍の戦法がかみ合わないのも理解できる。この注意書きの前後はこれを踏まえて読んでください。

 

源義経考(蛇足):蒙古軍は上記の他にも、「将を射んと欲すればまず馬から」の通り、騎馬武者の馬の脚を払うことも行った。これも当時の日本軍から言わせると「卑怯」となる。ところが、かつて源平合戦において卑怯ともとれなくない当時としては常識外の戦法をとり源氏を勝利に導いた武将がいた。おそらく平安時代以降鎌倉時代の戦乱の中で類をみないであろう戦法を試みたこの武将こそ誰あろう源義経なのである。思い出していただきたい。壇ノ浦の海戦で、平氏側の軍船の漕ぎ手すなわち非戦闘員を弓で射ることを考えたのは彼である。瀬戸内海を知り尽くし、海戦に長けていた平氏ですらそのようなことはやったことがないし(流れ矢が当たることはあっても格別狙うことはしていない)、考えもつかないことである(発想的には、「将を射んと欲すれば〜」と同じではないかと私は考えている)。さらに当時は夜襲はもちろん奇襲すらおこなわないのが暗黙の了解であったが、これも義経は一の谷のひよどりごえでやってのけている。勝ったからいいものの、御家人の中にはこのあたりのことを「武士らしくない」と快く思わない者がいたはずで、これが彼を追い詰める要因の一つであったかもしれない(義経ファンの方ごめんなさい。これもひとつの見方と思ってご勘弁の程)。ただ、彼が幕府の中枢として生き残り、彼の戦術を引き継ぐものが元寇の時代にいたとしたら、また違った結果があったやも知れぬ。その意味で義経の死は惜しむべきものである。もっとも海を渡り大陸で活躍、そして復讐のため子孫が蒙古軍をひきいて日本を攻めた「義経=チンギス・ハン説」なんていうのもあるが。

※「源義経考」については、この章の末尾参照

 

蒙古襲来絵詞(蛇足の弐):この合戦絵巻は実に当時の日本軍・蒙古軍の装備を忠実に描いており興味深い。蒙古軍は弓も大弓と短弓両方を装備し、連射の利く短弓と射程の長い大弓を使い分けしている。また槍をかなり装備しているが、投槍として使用する絵があり、その為であろうと理解できる。日本軍の装備は弓・太刀の他、長巻を見ることが出来る。

 

 

 

三、鎌倉時代後期(日本刀の完成期)

 

 文永の役での蒙古軍の戦法は根底から日本軍の戦法をくつがえすこととなった。この教訓は弘安の役にはきちんと生かされている。博多湾一体の海岸に防塁を築き、前回のような簡単な上陸を許していない。一騎駆けは行わず、斬りこみも集団で行った。また、敵の船団に夜間接舷奇襲をかけ大いに蒙古軍を悩ました。神風が吹いたから日本は助かったなどと見てきたようなことを言う方もいるが、それは蒙古軍として従軍してきた朝鮮側の記録の鵜呑みであり、合戦に於いては文永の役とは相当に違いがあり、互角かむしろ凌駕していたというのが現在の見解である。ここに日本の戦法の転機が訪れたといってよい。そしてそれは刀剣にもいえることである。

 

元寇以後の太刀の形状:平時・平服での斬り合いならともかく、鎧を着込んでの合戦では実用性に欠けることを図らずも露呈してしまったが、その後の実戦対応は素早かった。まず鎧の軽量化を図った。集団戦に備えて動きやすくするためである。そして太刀も刃の通りを良くするために、重ねを薄くし刃肉を落としそのかわり身幅を広くして刀身の強度を補強、切先を延ばして突きやすく、欠けても研ぎで全体の刀姿を損なうことのないように改良された。総体鎌倉初期の形状に似るが、先伏すのではなく反りがつき、一回り大きく頑健な感じを受ける。また、焼き入れも比較的低温(とはいっても特に低温とされる備前伝でも780℃前後あるが)で行っていたのをより強い硬度すなわち鉄の結晶の肥大を得るため、より高温で行い斬れ味をよくすることが考案された。高温で処理すれば硬度を増すのなら何でもっと早くからやらなかったと言うなかれ。集団戦がなければ、重ねを薄くすることも刃肉を落とすことも必要なかった。堅物斬りに適した太刀でも使い方で充分間に合っていたわけでことさら製法を変える必要はない。堅固な鎧から薄い鎧になれば刃の通りが良い方がより使い勝手も良くなるわけである。また、いたずらに焼き入れ温度を高くすると、硬いことは硬いが逆に刃こぼれしやすくなり折れやすくもなる(もろくなる)。その加減、地鉄との組み合わせが非常にむずかしくなるのである。

 

相州伝の誕生:政権が幕府のものとなり、鎌倉に政治中枢が移ったことで、畿内や備前から名工が移住したことは既に述べた。彼らも鎌倉で作刀していくなかで沸(にえ)の強い(=焼き入れの強い)作風のものも残している。武士の世相を反映してのことであろうが、そうした技術・伝法を受け継ぎ、さらに切磋琢磨・試行錯誤を重ねて焼き入れ温度の高い斬れ味の良い太刀を完成させたのが五郎入道正宗である。詳しい地鉄の質や焼き入れ等は専門的になりすぎるので省略するが、相州伝をもって日本刀の真の完成という人も多い。事実この後相州伝の技法はそれまでの備前・山城・大和伝にも影響を与え、作柄になにかしら相州風の箇所が見受けられるようになる。特に備前伝は積極的に採りいれたものもあり「相伝備前」などと言われている。

 

短刀:鎌倉中期および後期以降短刀がさかんに製作され、名品が多く残されている。それ以前にも短刀はあったが、なぜか余り現存しておらず、質的に劣るものが多かったのではないかと推測されている。例外的に古備前友成や粟田口久国などに出来の優れた短刀をみるが、儀礼的に使用されたものではないかと考えている。太刀ほど重要視されていなかったのかもしれない。鎌倉中期以降何故かふってわいたように短刀が流行した。平安時代以降短刀は腰刀として帯に指しているのが普通で、太刀とセットで佩用されていた。この頃にはまだ脇差は存在していなかった(NHKの北条時宗を注意してご覧下さい。太刀に添えて帯に手挟んでいるのは短刀を腰刀として用いているのです。誰も脇差は指しておりません)。この時代の短刀は、やや内反りか無反り、刃長は八寸前後。造り込みは平造りが多い

 

 

 

この時代の刀工:新藤五国光、行光、正宗、貞宗、粟田口吉光、長船長光、長船景光、長船兼光、来国俊、来国光、当麻国行、手掻包氏、保昌貞宗、龍門延吉など。全国的に優れた刀工が多数出現しており、鎌倉時代を日本刀における黄金期といわれるのも肯ける。また、現存品を確認できる美濃の刀工も鎌倉末期頃にあらわれ、この時代に古刀五カ伝、すなわち山城・備前・大和・相州・美濃が出揃った。

 

竜馬を斬った刀(蛇足の参):太刀の形状のところで、刃長二尺未満のものを小太刀と呼ぶことは述べた。ある日、最近流行りのビジュアル系歴史雑誌を見ていたら坂本竜馬を斬った刀が載っていた。銘は「越後守包貞」、江戸時代前期の大坂の刀工のものであった(残念ながら銘も朽ちこみが激しく錆びもびっしりで代までは判別できなかった)。この雑誌ではこれを「小太刀」と称していた。実はこの刀は以前TV(某国営放送、ばればれだな、これじゃ)にも登場したがこのときも学者先生が「小太刀」と言っていた。どうみても銘の位置が太刀銘とは表裏逆、すなわちこれは脇差なのである。第三章で触れるが、刀は太刀と違って帯に刃を上に向けて指す。従って銘の位置は太刀とは表裏逆なのである。これを小太刀として使用することがまったくないわけではないが、だとしたら竜馬を斬った刺客はこれを帯取使ってぶらさげてたのか?幕末だぞ、時代は。なぜこのような間違いがおこったのか?これは剣術における小太刀の業と取り違えているのであろう。刺客の首領である佐々木唯三郎が神道精武流の皆伝者で特に小太刀の業に秀でていたので、小太刀をよく遣う=その達人が使用した刀=小太刀を使ったと相成ったのであろう。武道で言う小太刀は長い得物に対する短い得物の意味があり、太刀より短いもの全般を指す。短い得物で長い太刀や刀に対処する業を総称して小太刀術と言うのだ。前述の学者先生の論理で行くと、戦国時代の小太刀の達人富田勢源が梅津某との試合で薪を小太刀代わりに使ったことはどうするのだ?これも小太刀なのか?愛刀家として、この混同は許せん!しかしながら刀剣に対する認識というのはこれが真実であることも否めない。悲しい・・・・。しかし、歴史学者としてTVでコメントするなら、専門外ではあるのは分かるが、少なくとも剣術でいう小太刀と刀剣の小太刀・脇差くらいは勉強しといて欲しい。竜馬を斬った刀が学者を斬った刀になるところだぞ!まったく、ぶつぶつ・・・(フェードアウト)。

 

※「竜馬を斬った刀」については、下記参照。

「源義経考」及び、「竜馬を斬った刀」の疑問について、当HP掲示板に於いて議論が交された。

以下にそれを記す。

 

法城寺

「小生の書いた日本刀の変遷の中で「第二章その二(鎌倉時代中期)」のところで「源義経考」があります。日本古来の戦法をおよそ覆す、すなわち当時の武士の戦いにあるまじき振る舞いともとれる後の集団戦への布石を生んだと考えておりますが、いかがなものでしょうか?

ぜひ御意見伺いたいものです。」

 

たかし様

「海音寺氏であったか司馬氏であったか、義経こそ過去例のない騎馬戦術の革命者であったという趣旨を書いておられたのを目にしたことがありますが、時代の常識を破り、それが西国を中心に動いていた当時の日本を変えたことは事実かと思います。とはいえ、東夷と蔑まれていたものの、現代では東北と呼ばれる地方では、また別の文化がありました。

 京から離れているので、地方文化が云々されることがないだけで、奥州といえば名馬の産地。などと生易しいものではなく、奥州産の馬にあらずば馬でなし、というほどの、まあ性能も伴っていたでしょうが超高級ブランド品だったので、馬の育成、軍馬への転換調教など馬技術の本場でした。

 あまり知られていませんが、特別に調教しないと軍馬には使えません。馬は生来が性格穏やかで温厚な草食動物なので無駄に争うことはせず、危険からは逃げようとします。殺気走った雰囲気や大音響に耐えるように訓練されるのは、馬にしてみれば迷惑なことでしょうけれど、戦場で役に立つよう馬を訓練するというのは、なかなか大変なことです。

 その技術の本場に育った義経が、ある意味名ばかりの公家ずれした中央の武士より馬に通じていたのは当然で、さらに中央で当然とされていた戦場作法に疎かったとしても、そのほうが自然な話でしょう。

 義経が兄頼朝の味方に参じ、麾下の将として数々の武勲をたてたとき、同族の坂東武士たちからかなり軽視蔑視されていたらしいことは、史記にそれを察せられる記述が多々あります。頼朝が源氏本流であるか否かが周知徹底されていない状況下、少数の手勢しか連れずにやってきたため、田舎者の役立たずと思われたようです。詳細は海音寺氏の武将列伝を読んでいただくとして・・

 せっかく応援にやってきたのに、兄は喜んでくれたものの親族からは蔑視されれば、生来剛毅な義経がなにくそと感じたとしても当然でしょう。その意気で戦場に立ち、敵を眼前にすれば、徹底殲滅してやろうと考えるのもまた当然。

 悠長に陣構えだ名乗りだと言われても、それが大多数には常識だとして、そんなものと無縁に育った義経には理解するのが難しかったでしょう。敵がいるから倒す。しかも馬には詳しいとなれば、常識破りの騎馬戦術と他に見られても、彼にしてみれば、なんでそれが常識破りなの? と、かえって困惑したのではないでしょうか。

 彼のその意識や常識のずれが、後々、義経自身を兄との対立に追い込んでいったのだと愚拙は考えますが、それはそれとして・・

 彼の戦術が集団戦へのきっかけであったかどうかは、やや疑問です。儀式戦から殺し合い戦争への意識改革のきっかけにはなったでしょうから、それがめぐりめぐれば集団戦へと変化していったと見れば、一つの布石ではありますが。

 義経が媒介となって、西国を中心に進んでいた武士社会の浮世離れした公家風の風潮に、地方の実利実戦重視の思想が持ち込まれた、というほうが、表現としては正確かもしれませんね。」

 

法城寺

「奥州では普通であったものを、持ち込んだのが義経。ふむふむ、そうとも考えられますね。義経が自身で編み出したものでなく、奥州の土壌では既にあったやも知れぬ戦術・戦法、可能性大ですね。

私は実は判官贔屓的な義経崇拝にはどうも好きになれないところがあるのですが、彼のとった戦法はやはりそれまでの平安期における武家社会の常識を破り実戦本位であるところに高い評価を与えている者です。

第二章にも書いたとおり、もし彼の戦術を引き継ぐ者が元寇時にいたとしたら、違った結果が生まれていたと考えております。その意味で惜しい人物であることには間違いのないところです。ただ、頼朝からみると、それ故に邪魔だったのかも知れませんね。

たかし様のご意見非常に勉強になります。今後ともいろんなご意見を賜りたく存じます。」

 

法城寺

「加えて、同じ第二章の最後の「竜馬を斬った刀」における小太刀についても御意見賜りたく存じます。」

 

和泉守様

「龍馬を斬った「小太刀」について

私も法城寺さんのご考察のとおりと思います。

歴史学者の先生も「短めの刀」を単純に「小太刀」と表現してしまったのかと。

手元にある京都・霊山歴史館の資料などをあらためて見てみましたが、龍馬を斬ったのは桂早之助とされており「龍馬を斬った刀」の写真がありました。1尺3寸9分。反りは0.8センチ。目釘穴1個。銘は「越後守包貞」。茎の目釘穴と棟の間に切られてます。刃を上にして腰に差した状態で表側ですね。ただし「偽銘」とされてます。(ちなみに早之助の所用刀も載っていて「越前国住人兼則」2尺3寸8分です)

この霊山歴史館の資料では「大正5年頃、維新資料編纂員・川田瑞穂が龍馬を斬った刀の調査のため桂家を訪れ、当主の桂利器に会った時のことを、のち『土佐史談』に『初より室内の闘争を予期して長刀を携へざる小太刀の名人のみを2階に闖入せしめたのである。予は桂早之助の娘婿桂利器の宅にて右(龍馬襲撃)に使用せし刀を見せて貰ひたり、2尺に足るかたらぬ脇差程度のものであった。』と寄稿している。」と書かれてます。

このへんの読み方が、刀剣を知ってる方とそうでない方では違ってくるのでしょうか。

桂早之助については、家系は代々幕臣で、当時見廻組肝煎(慶応3年2月、見廻組並から昇格)。天保11年京都生まれ。父清助は京都所司代同心。早之助も11才で京都所司代の同心となってます。剣術は西岡是心流(小太刀が得意かどうかは不明)。17才のとき(安政4年12月)に是心流兵法九ヶ条目録、同兵法目録を授けられてます。将軍上洛に際して開催された講武所と所司代の剣術試合で、成績優秀につき白銀5枚を賜りました。また、御所炎上、8・18政変、池田屋事件に出動しています。明治元年1月3日、鳥羽伏見の戦いで戦死。行年28才。

ついでに、今井信郎の所用脇差も載ってまして、銘は「菊紋 山城守源一法」(1尺3寸)です。 」

 

タノQ様

「京都・霊山歴史館ね、メモメモ φ(.. )

しかし偽銘包貞、源一法、何れ脇差にしても短う御座いますね

短刀に近しい寸法です」

 

法城寺

「和泉守さま

詳細情報ありがとうございます。

少なくともテレビにてコメントをするわけですから、学者先生も多少なりとも「刀の専門家」に話を聞いてから出演し解説する必要があるように考えますが、所詮刀剣への世の関心とは学識のある方にとっても(歴史学者も含め)こんなものなどだといささか悲しい気がします。

司会者が「この刀はなんなんでしょうか?」

それに対しはっきりと「小太刀です」と言いきった学者。太刀・刀の区別もおそらくつかないままの発言、そして国営放送という影響力からこれを事実であると信じている「坂本竜馬ファン」も多いことでしょう。

歴史の大局からはささいな見解であろうとも我々愛刀家には事実を歪曲した伝えられ方、本気で抗議しようと思いましたが一笑にふされるだけと、なにもしませんでした。」

 

 

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